2009年06月30日

明治時代から続いた日独交流

「ドイツ人は、どんなふうにケチか?」を読んだ方の中で、日本とドイツの交流の話をもっと聞きたいという人がいたので、このさい、あと2つ3つくらい紹介しておきたいと思います。


 昔、日本とドイツには、友情があったのです。

 草津温泉に住んでる人ならピンとくるでしょう。
 しかし、日本人の若者には分からないし、
 ドイツ人の若者にも分からないでしょう。

 だから私が説明してもいいかもしれません。


明治時代から続いた日独交流

 小塩節さんというドイツ文学者、中央大学名誉教授が、
 ドイツ留学生の頃のに体験した実話です。

 今から何十年も前のことです。小塩さんは、ドイツのミュンヘン郊外のパウズインガー一家の館に二ヵ月下宿をさせてもらいました。本人は、ただの下宿人として泊めてもらうつもりでしたが、しだいに家族の一員となってしまいました。

 パウズインガー家の人びとは、ただの下宿人でしかない小塩さんをまるで一家の賓客でもあるかのように、もてなしてくれました。遠くまでドライヴに連れて行ってくれたり、一家をあげて親切にしてくれました。小塩さんは次第にその好意に甘えるようになってしまいました。小塩さんは、この親切に対して

「一般的に言ってドイツ人は日本人に対して親切なのだ」

と気楽に考えていました。

「ひょっとしたら私のドイツ語が人並み以上だったから仲良くなれたのかも」

と思う気持もありました。

 しかし、そうではなかったのです。
 その理由は、小塩さんが
 パウズインガー一家と分かれる時に分かります。

 グラーフラート村滞在の最後の日、
 パウズインガー一家とお別れの日、
 ヨハンナおばあさんはいつものようにヴェランダに
 午後のコーヒーの用意をして、小塩さんを呼んでくれました。

 そして彼女は語りだしました。

 ヨハンナおばあさんのお父さんは、マイヤーというミュンヒェン大学の林学教授でした。明治の末に東京大学に招かれ、農学部の中に林学を確立するため数年を過ごした、というのです。

(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

 帰国後まだ五十歳代で亡くなりましたが、数人の子どもを抱えて未亡人は、第一次大戦後の天文学的インフレーションの時期に、たいへん苦労をしました。卵をひとつ買うのに、カバン一杯の紙幣を詰めていかなければならぬのです。

 そのとき、かつての東京大学での教え子たちが
 日本でお金を集め、
 ドイツに送ってくれました。

 そのお金で未亡人は苛烈な時代を乗り切ることができました。

「あなたは」

とヨハンナおばあさんは、
いまも美しい大きな蒼い眼を
うるませながら続けました。

「半世紀たったいま、私が行ったことのない遠い東の国から、心よりの挨拶を持ってきてくれました。どうしてこの人を、もてなさずにおれようか、と思いました」

そう言って、60歳とは思えぬ力で小塩さんを強く強く抱きしめました。そして、彼女は会ったことのない、しかし母親からよく聞かされた日本の農学者、林学者たちの名を正確にあげました。

「白沢、加藤、小出…」

というお弟子さんたちの名を。
いまはもう亡き人たちであろう名です。

 翌朝ヨハンナおばあさんは家中を指揮して、小塩さんに早い朝食を用意してくれました。それから駅まで小塩さんを送って、目を真っ赤にして別れを告げるとき、

「朝は五時に起きて、森のむこうの川べりの教会の早朝ミサに行き、おまえの旅路、安らかなれと祈ってきた」

と言いました。

「この親愛の情は、小塩さん自身に寄せられたものというよりも、明治・大正の先人たちの蒔いてくれた種子のせいなのです」

と、小塩さんは、しみじみ思いました。

 ところで、この話には後日談があります。
 小塩さんは、この話を東京の朝日新聞に書き送りました。

 航空便で送った数枚の文章が新聞にのってしばらくして、
 国際基督教大学の小出詞子教授が
「あの小出というのは、私の亡父です」
というお便りをくださいました。

 小塩さんが、ヨハンナおばあさんにさっそくそのことを伝えたのは、言うまでもありません。



 この話は、決して珍しい話ではありません。
 当時の日独には、わんさかあるのです。
 それについては、機会があったらふれることにしますが、

 問題は、こういう草の根交流が、
 現代にあるのか?
 ということですね。

 明治人にできて、平成人にできるか?
 ということですね。




(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

明治期に来日したお雇い外国人でドイツ人林学者。バイエルンに生まれる。父は森林官。ミュンヘンのギムナジウム時代に森林会議の速記をしたり、卒業後父の勤務する営林署で林業見習生となります。森林学校に学んだ1876年より晩年まで世界各地の森林を踏査し研究を続けました。

 明治18(1885)年に森林調査で初来日し翌年まで滞在。21年1月東京農林学校(東大農学部)教授として招かれ再度来日、造林学、森林植物学を講じます。24年2月帰国。

 その間、北はエトロフから南は屋久島におよぶ各地の森林を踏査。成果の『日本樅科植物考』(1890)は日本の森林植物帯研究の基礎となりました。離日の際、「伊豆、九州の山は荒れている」との感想を残します。1903年バイエルン国皇子の随員で3度目の来日をしました。
posted by 風 at 21:22| Comment(0) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

ローテンブルク資料

ヨーロッパバスで貰ったローテンブルク資料です。


r-007.jpg

r-001.jpg

r-002.jpg

r-003.jpg

r-004.jpg

r-005.jpg

r-006.jpg

r-008.jpg
posted by 風 at 05:11| Comment(0) | ローテンブルク(Rothenburg) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

ドイツ人は、どんなふうにケチか?

ドイツ人は、どんなふうにケチか?

 ブログを読んでくれた御客様からこんな質問がありました。

「ドイツ人って、ケチなんですね?」
「そうですね」
「ユダヤ人みたいですね」
「うーん、ちょっと違うかなあ」
「じゃあ、関西人みたいな感じ?」
「それとも違うなあ、しいて言えば、名古屋人みたいな感じかなあ」
「じゃ、どケチということですか?」

 言葉に詰まってしまったので、ブログで回答することにしました。
 で、考えたのですが
 舌足らずな私の言葉より、引用の方が正確だと思うので
『エッ!そんなことが』藤井啓之著
 より抜粋して紹介してみます。

 藤井啓之さんは、銀行員です。
 彼が某銀行のニューヨーク支店で働いた時の思い出を紹介します。


 × × × × × × × ×



コタ・ウオルフの思い出

 東ドイツから逃げて来たという二十代半ばのドイツ女性、ユタ・ウォルフ(Uta WOlf)を採用した。当日の応募者の中で明るい性格、やる気、頭の良さが抜群だった。
 ところが、日もあまり経たないうちにアメリカ人スタッフから白い目で見られるようになった。
 応募日に着てきた太めの毛のセーターを毎日着てくるのと、連日残業してタイプ、加算機などの練習に黙々と励んでいるのが気にくわないと言う。

 確かに、貧しくとも服は毎日着替えるのが勤め人の常識となっており、また残業が毎日続くようでは当局の立入検査の対象にもなる。当然ユタは皆の陰口の対象となった。

「不潔なドイツ人−」
「残業を見せっけ日本人スタッフの歓心を買おうとしている」

などと言われ、支店内の雰囲気はおかしくなった。
初めて週給を払う金曜日、彼女にそれとなく聞いてみた。
ところが、

「みなさんが、何を思っているかは分かります。皆に迷惑なのも分かります。ただ私は、東独から着の身着のまま逃げて来たので、食べるのが精一杯です。今日いただいたこのお金は有効に使います。また残業しているのは、営業中にはできないタイプや加算機の練習のためです。従って残業代は要りません」

という趣旨のことを、ひどいドイツ語靴りの英語で言うのだった。

 次の月曜日には粗末ながらも新しい服装で現れたのでほっとしたが、火曜日にはまた例のセーターとなり、その週は二着を交互に着ていた。毎日変えるようになったのは、かなり後になってからのことだった。

 女性や若いアメリカ人男性スタッフは規定の五時になると決まって、バイ!と言って帰ってしまう。計算係は当日の入出金を加算機で集計し五時になると、今日はこれこれの数字が合わないと言い残して平気で帰ってしまうので、後は我々日本人が残業して勘定合わせをする毎日だった。

 しかし、ユタが担当すると勘定が合うまで帰らない。

 ニューヨークは遅くなると物騒な街なので、本人に事故でもあれば当局は従業員の安全管理の不備を突いてこようし、経営者の支店経営実態なども問題にしてこよう。従って、後は我々に任せて早く帰るようにと言うと、

「これは自分の仕事です。残業になるのは自分の手が遅いからで、標準に達していれば時間内に納まる仕事量です。もちろん残業代は要りません」

と言われ、その根性に舌を巻いた。

 当時、我々のオフィスはマンハッタン島の最南端にあり、アメリカ人の好きなパレードの出発点でもあった。高層ビルの上から紙テープを投げながら見るパレードは皆の愉しみの一つにもなっていた。そんなある日、宇宙旅行に成功したシェパード飛行士の凱旋パレードが始まった。例によってビルの窓は人の顔で埋まり、紙テープの舞うのが見えてくると、店内のローカルスタッフは一斉にオフィスから飛び出して行った。人気のなくなったオフィスにユタが一人タイプの前に座り黙々と仕事を続けている。

「ユタ、君も行って見て来いよ」

 と言うとNO″と言う。
 そして私の不思議そうな顔に気がついてこう言った。

「いうなれば、シェパードは宇宙船の運転手でしよう。本当に祝福されるべき人はあの宇宙船を造った技術陣のはず。ロケットを造ったブラウン博士共々その人たちがパレードするなら私は喜んで手を振ってあげる」

 これを私はドイツ人の理屈っぽさと受け取ることはできなかった。

 物が豊富なせいか、ためらいもなく鋏でひもを切り、包装紙は丸めてゴミ箱に入れる女性たちの中にあってユタは国の母の躾だと言って、ひも、包み紙はきちんと整理箱に収め、事ある毎にそれを活用していた。

 このような日々を送るうち、次第に彼女の英語も堪能になり、引き続き仕事振りも他の範として昇給もボーナスもトップを続けた。だが服装だけは依然として質素だった。

 こうして二年ほど経った年の末、西部の都市に移ることになったという彼女の送別会を兼ね、恒例のクリスマスパーティを開いた。

 当日女性たちはそれぞれ華やかに着飾り楽し気に集まった。

 中にひときわ上等なシルク仕立てのドレスに身を包み、
 艶やかな女性が皆の目を引いていた。


 ユタだ!

 何という憎い演出だろう。
 出世物語か映画のラストシーンでも見ているような
 ショックを受けた。

 賑やかな会食も終わり、
 ユタが退職の挨拶に立った時、
 その優雅な姿に一瞬静まり返った。

 その挨拶は馬鹿にされた往時のことも、
 いじめへの恨みつらみの一言もなく、
 謙虚に感謝の言葉で締めくくられた。


 ダンスパーティに移り、私はユタの相手をした。
 踊りながらユタが、

「長い間面倒を見てくれて本当にありがとう。藤井さん」

 と言うのでふと顔を見ると、形の良い鼻の脇にが光っていた。
 私はこのユタにドイツ魂とドイツ女性を見た。

(『エッ!そんなことが』藤井啓之より抜粋して紹介)
posted by 風 at 23:34| Comment(4) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

ローテンブルク2

ローテンブルクには、城壁があります。
こんな感じです。

5-27-1r-015.JPG

で、この城壁に登りました。
こんな感じです。
わかりますか?

5-27-1r-023.JPG

登ると通路がこんな感じです。
とっても狭いです!
ほぼ、一方通行ですね。

5-27-1r-022.JPG

一人がやっと通れます。
で、この狭い通路に、
300人くらいの小学生の集団が、向こうから
大挙してやってきたのです。

道をゆずったんですが、これがいけなかった。

ダラダラ歩く小学生たち三百人が、
延々と続いてしまった。
そうこうしているうちに、バスの出発の時間は、
刻々と迫ってくるのであった。

つづく!

5-27-1r-021.JPG


posted by 風 at 23:16| Comment(0) | ローテンブルク(Rothenburg) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

ローテンブルク1

ローテンブルク

5-27-1r-025.JPG

 ヨーロッパバスで、ロマンティック街道を旅する場合、ローテンブルクに泊まり、フュッセンに泊まるのが一般的なコースなしいのですが、リヒャルト・シルマンの足跡を取材する私たちには、ローテンブルクの古都も、フュッセンのノイシュヴァンシュタイン城(いわゆるシンデレラ城ですね)とホーエンシュヴァンガウ城も、用がありません。

 私たちが目指すのは、ディンケルスビュールであり、ミュンヘンなのです。そのスケジュールをヨーロッパバスの運ちゃんに話すと、

「とても興味深いスケジュールだ、こんなスケジュールは初めてだ」

と言います。

 そうなんです。
 一般的には、ローテンブルクであり、
 フュッセンなのです。

 しかし、私たちの旅は、あくまでもリヒャルト・シルマンの足跡を訪ねる旅ですから、大勢の観光客が訪れる主な観光地は、わざと外してあります。とはいうものの、ヨーロッパバスは、ローテンブルクに40分だけ運転手の休憩のために、一時停車しますから、40分だけローテンブルクを観光することにしました。

 ローテンブルク。

 実は、この街には、ディンケルスビュールの『キンダーツェッヒエ』の伝説と同じような伝説があります。
 『マイスタートルンク』の伝説です。西山夫妻(といっても奥さんが書いているブログなのだが)が、この伝説をうまくまとめているので抜粋して紹介します。


  ×  ×  ×  ×  ×

 昔々、自由都市だったローテンブルクに、危機が訪れました。1631年、ドイツの三十年戦争の頃のこと。ローテンブルクを占領したティリー将軍率いる皇帝軍が、ローテンブルクを治めていた市参事会の会員たちの首を刎ねることを宣言しました。たまたま、将軍がローテンブルク市のワインを、大ジョッキで勧められた時、

「この大ジョッキを一気に飲み干す者があらば、斬首はやめよう」

すると

「ワシが飲み干してみせよう」

と、ローテンブルク市長のヌッシュが名乗り出ました。

「ティリー将軍、ワシが一気に飲み干したら、確かに市参事会の会員の斬首は取り止めとのお約束、果たしてくれましょうな?」
「無論だ。ただし、一気に飲み干せればの話だがね。市長」

 ヌッシュ市長は、大ジョッキを傾けて、ワインを飲みほし、バタリと倒れてしまいました。ティリー将軍は市長の度量と、その離れ業に感服し、約束どおり斬首を中止したそうです。英雄・ヌッシュ市長は、その後3日間眠り続けて、目を覚ましたということです。

http://blog.livedoor.jp/m-95_72230/archives/51432724.html
のブログより抜粋して紹介。

  ×  ×  ×  ×  ×


 こうして、ローテンブルクの危機は去ったのですが、そのローテンブルクも、第二次大戦で連合国の爆撃にあって街の半数が破壊されています。ところが、キンダーツェッヒエの伝説のあるディンケルスビュールは、第二次大戦を経験しても無傷だったのです。


5-27-1r-015.JPG


 ワインの一気飲み伝説は、
 ローテンブルクの街を救えなかった。

 子供を平和の使者にした伝説は、
 ディンケルスビュールを救った。


 この事実に考えさせられたのは私だけでしょうか? 私は、この謎をとくために、日本から、はるばるローテンブルクとディンケルスビュールを見にやってきたのです。



ローテンブルクの町並み
5-27-1r-009.JPG
posted by 風 at 23:30| Comment(0) | ローテンブルク(Rothenburg) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヨーロッパバスに乗ってみた2

ヨーロッパバスに乗ってみた2

ddd-s-002.JPG

 ヨーロッパバスに乗るとドイツ語・英語・日本語のガイドのアナウンスが始まりました。ところが、日本語のアナウンスが、関西弁でした!
私は、その昔、ディズニーランドで遊んでいた関西から来た女の子と、こんな会話をしたことを思い出していました。

「そんなに、ディズニーランドが好きなの?」
「めっちゃ好き!」
「じゃ、大阪にディズニーランドがあったら毎日行く?」
「行く! 毎日行くわ!」
「じゃ、ミッキーマウスが関西弁しゃべってても?」
「うーん、それは嫌やな」
「・・・・・・」

 そのうち、関西弁のアナウンスは、こんな放送をしてきました。

「当バスでは、ビール、ジュースなども販売しております」

 ビールか、いいねえ。
 いや、待てよ。
 ビール飲んだらトイレに行きたくなるじゃないか!

 バス旅行の最大の弱点は、トイレです。
 車内にトイレがないからビールが飲めない。
「畜生! これって生殺しじゃないか」
と思っていると、関西弁のアナウンスは終わり、今度は標準語のアナウンスが始まりました。

 これが、聞き取りにくい低音でした。
 私は心の中で
「聞こえんぞ、関西弁の姉ちゃんと交代しろ」
と叫んでましたね。方言なんか、どうでもいいから聞き取れる音声にしてくれよと。

ddd-s-004.jpg

 ところでヨーロッパバスは、2人の運転手が日替わり交代で運行しています。私たちは、小太り気味のヒゲ親父の運ちゃんにあたりました。

 このヒゲ親父、運転しながら、さかんに英語でギャクをとばすのですが、怒ったような顔でギャグを言うので、誰も笑わない。というか、笑って良いのかどうか躊躇する。あとで、気がついたのですが、ドイツの男性諸君は、みんな笑わないのです。もちろん例外もいますが、半分以上は、笑顔なしの親切をしてくれたり、笑顔なしのギャグをとばす。

 もちろん例外はあります。しかし、その例外は、別れの際に「チャオー」と言ってわかれるからイタリア系なのかもしれません。別れの際に「チャオー」と言う人は、たいてい親切であり、笑顔がすばらしい男性ばかりです。「ヘタリア系の人か?」と思っちゃいましたね。

 また、時々「イッツ、クール!」なんて英語を端々で使ったりする人もいます。こういう人も、たいては親切で優しい笑顔をみせる人です。きっと「YouTube」に夢中なドイツ人だろうと思いましたね。こういう人は、ドイツ的な特徴から脱したドイツ人かもしれません。

 私は、3年前に、日独交流事業でドイツ人と、何かとギャグの応酬をしたことがありますが、交流事業であったドイツ人と、旅先で会ったドイツ人は、まるで別人のような感じがしました。

 その逆にドイツの女性たちは、実に美しい笑顔をみせます。旧西ドイツ側の女性なら、にこやかな笑顔をみせてくれます。ドイツ男性とは、まるで別の生き物のようです。

 話がそれました。

 ヨーロッパバスの運ちゃんの話です。彼は、いつも怒ったような顔でギャグを言います。しかも、サービスで、いろいろと英語で案内してくれる。そのうえアカペラの音楽まで聴かせてくれ、次々と乗り込んでくる御客様にも、いろいろ話しかけては、笑いどころを作るのですが、怒った顔のせいで、すべりまくっていました。むしろ怖がられていた。

 仕事中のドイツ人男性諸君!
 もっと笑顔をみせたらどうかね?


ddd-s-003.JPG

(ただし、プライベートになるとドイツ人男性諸君も、よく笑顔を見せます。で、ここまで書いて思い出したことが。二十年前のバックパッカー時代の頃です。私に、まだ多少の英語能力が残っていた頃に、ドイツ人バックパッカーに、日本人の男は、なんでオカマぽいんだ? どうしてヘラヘラするんだ?と聞かれたことがありました。ドイツ男性は、今でも、日本人男性を、そう思っているのだろうか?)
posted by 風 at 00:00| Comment(2) | ヨーロッパバス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

ヨーロッパバスに乗ってみた1

ヨーロッパバスに乗ってみた1

DSCF2841.JPG


ヨーロッパバスでのトラブル

 ヨーロッパバスというのは、ロマンティック街道を一日一本通行している路線バスです。ロマンティック街道を観光するには、これが一番便利なんです。そのうえ嬉しいことに

1.日本語のアナウンスをしてくれる
2.日本語のガイドブックをくれる
3.運転手が日本人に慣れている

というメリットがあるんですよね。

 というわけで、フランクフルトに到着したら翌日、ヨーロッパバスに乗って、ディンケルスビュールに向かう計画をたてました。旅の最初は、ドイツに慣れるために、まずは日本語環境のある場所からスタートしようと。で、フランクフルト到着直後に、ヨーロッパバスの会社『touring社(http://www.touring.de/)』の事務所に行ってチケットを買い、停留所を確認して、出発30分前から停留所で待っていました。


これがtouring社.バス停は、その前にある。
DSCF2827.JPG

バス停の時刻表.うしろにtouring社が見えている。
DSCF2828.JPG


 しかし、15分前になってもバスが来ない。
 フランクフルトは、始発で30分前にバスがくるはずなのに
 きてない!

「変だな?」

と、二十年前のバックパッカー時代の野生の勘が蘇り、バスを探してみると、停留所から五十メートルくらい離れた後方に止まっていて、出発直前で待機している。

「やべ! 危ない危ない!」

 海外旅行では、こういう勘が大切になります。
 言われたとうりの場所の停留所待っていては駄目で、
 積極的にバスを探し、積極的に人に尋ねないと、
 とんでもないことになる。

 二十年間バックパックの旅のブランクがあったので、
 そのへんが、すっかり麻痺している自分に気がついて
 ボーゼンとしていました。

 ちなみに、うちの嫁さんは、相変わらず、じーっと言われたとうりの場所の停留所でバスが来るのを待っています。私と違って彼女は英語ができるので、今まで彼女に全部任せていたのですが、「そうもいかんなあ」と改めて実感してしまいました。

 情けないけれど、この旅は、私の昔の経験則と、
 嫁さんの中途半端な英語力をプラスして
 どうにか旅が続けられるレベルだったのです。



バス停でバスを待つ光景
DSCF2829.JPG


で、バスに乗ると、さっそく、
ドイツ語・英語・日本語の
ガイドのアナウンスが始まった。
ところが、日本語のアナウンスが、関西弁なのだ!

なんで関西弁なんじゃ!

つづく
posted by 風 at 18:13| Comment(0) | ヨーロッパバス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロマンティック街道

ロマンティック街道とキンダーツェッヒエの伝説

 ドイツといえば、ロマンティック街道。ドイツ最大の観光地がロマンティック街道です。といっても、街道がロマンティックなわけではありません。この街道は、もともとはローマ人たちによって作られた街道で、ローマへの道路網の一環として整備されたものです。別に街道がロマンティックなわけではなく、ローマへの道路という意味ですね。

5-27-2d-127.JPG

 第二次大戦後、アメリカの将兵たちが家族とこの地方で盛んにバカンスを過ごしていましたので、観光地として開発するために、この名でコースが設定されました。ただ、このロマンティック街道というネーミングを考えたのは、日本の観光会社であるという都市伝説があります。本当なんでしょうか?

5-27-2d-139.JPG

 ところで、ドイツには、150以上のこうした観光コースが指定されています。ロマンチック街道は、その中の一つで、日本人にとって一番人気の街です。

 実は、このロマンティック街道とリヒャルト・シルマンには、あまり関連がありません。私が著した『シルマン伝』に脚色として、ロマンティック街道にあるディンケルスビュールが書かれてあるだけです。

 なぜ、脚色してまでディンケルスビュールを書いたか?
 ディンケルスビュールには、
 信じがたい伝説があったからです。
 『シルマン伝』から抜粋して、その伝説を紹介してみましょう。

 ×  ×  ×  ×  ×

「ミュンカーさんは、キンダーツェッヒエの伝説を知っていますか?」
「ええ」
「あれは、カトリックとプロテスタントが殺し合う三十年戦争まっただ中のことだった。カトリックの街デンケルスビュールは、一六三二年にプロテスタントのスウェーデン軍に包囲され大虐殺が行われようとしていた。しかし、その時、勇気ある街の子供たちが敵の将軍の前に跪いて許しを乞うた」

 ミュンカーが物語の続きを語りました。

「しかし、馬上のフォンシュペロイト将軍は、街の破壊を言い渡した。そして、今や破壊されんとする直前、目の前にいる小さな子供が、自分の息子にそっくりなのに驚き、胸を熱くして、その子供を抱き上げ、子供たちの願いはかなえられ街は破壊からまぬがれた。こうして街は救われ、それいらいデンケルスビュールの街は、子供たちを村祭りの主役にして、子供たちは村をあげてもてなされるようになった」

            (リヒャルト・シルマン伝 第20章より)

 ×  ×  ×  ×  ×

 はたして「キンダーツェッヒエの伝説は、はたして伝説であったのか?」ということです。というのも、シルマンが子供村を運営している間のドイツは、平和そのものであったにもかかわらず、行政が子供村の廃止を決定した直後にヒトラーが政権をとって戦争の道に進み、やがてはドイツ全土が破壊されてしまったからです。そしてドイツ復興は、シルマンたちが子供たちのために立ち上がることによって始まったからです。ですからキンダーツェッヒエの伝説のとおり、ドイツの幸福は子供たちと共にあるのかもしれません。

            (リヒャルト・シルマン伝 第20章より)

 ×  ×  ×  ×  ×


5-27-2d-299.JPG

 つまり、子供が、ディンケルスビュールを救ったのですね。

 さて、ここで『シルマン伝』に書いてなかった一つの事実を述べます。ロマンティック街道の中で、唯一、第二次大戦の破壊から免れた都市があるのです。ディンケルスビュールです。近くのローテンブルクの半分が破壊されているのに、キンダーツェッヒエの伝説のあるディンケルスビュールだけは、破壊を免れています。

 これは奇跡です。

 キンダーツェッヒエの伝説が生きていた証拠なんですね。
 そこで私は、一つの結論にたどりつきました。
 キンダーツェッヒエの伝説のとおり、

ドイツの幸福は、
子供たちを平和の使者に
することによって得られると。


5-27-2d-164.JPG


 ×  ×  ×  ×  ×

 その後も、ヒトラーユーゲント師団は大活躍し、ロンメル将軍をはじめとして、多くの将軍が彼らを絶賛しました。しかし、ドイツにはキンダーツェッヒエの伝説があります。子供たちを戦場で死なせれば死なすほど、ドイツは地獄への坂道を転がり落ちていきます。子供たちは平和の使者でなくてはならないのです。

(中略)

 しかし、ドイツでは、子供たちを戦争に使用すればするほど、ドイツが破壊されていったのは皮肉でした。あきらかにキンダーツェッヒエの逆を行っていました。例えば、戦争が終わりを迎えようとしていた時、メクレンブルク州のマルヒンという破壊をまぬがれた都市をソビエト軍が占領した時、隠れていたヒトラーユーゲントがゲリラを行い、ソ連軍の反撃で街の七割が壊滅するという事件がおきました。

 ヒトラーユーゲントたちは、勇敢ではありましたが、街をオープンシティーにするといった理性に欠けていました。戦争法規も教えられておらず、合理的な戦術を展開する術も知らず、ただ闇雲に攻撃ばかりして反撃を受け、美しい故郷を焦土にしていました。

            (リヒャルト・シルマン伝 第25章より)
posted by 風 at 16:33| Comment(0) | ロマンチック街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フランクフルトユースホステル

フランクフルトユースホステル

フランクフルトは、ドイツの国内外の交通 の中心で文豪ゲーテの町としても有名です。ゴシック式の旧市庁舎レーマーや、高さ95メートルの塔を持つゴシック式のドーム、ゲーテの生家ゲーテハウス、1730年建造の旧衛兵用ハウプトヴァッヘなどがあります。

5-27-f-006.JPG

 このユースホステルは、おすすめです。まず立地が良い。駅から20分のところにあり、観光のポイントのところにあります。400ベットもあるうえに、フロントは、24時間もオープンしているために、朝早くからチェックアウトできます。部屋も広く、トイレもシャワーも多く、混雑することもありません。

5-27-f-007.JPG

予約枠とは別に当日枠をかなり用意してるようです。
注意書きは、日本語の紙でくれます。

5-27-f-001.JPG

食堂もカフェテラスも広く、個室もたくさんあります。

5-27-f-046.JPG

玄関は、23時以降に鍵がかかりますので、部屋キーの他に玄関キーも渡されます。かなり設備の良いユースホステルなので、ユースホステル初体験の人も、安心して泊まれると思います。特にドイツのユースホステルは、清潔なので、へたな日本のホテルより安心して泊まれるかもしれません。

5-27-f-008.JPG

posted by 風 at 04:15| Comment(0) | フランクフルト(Frankfurt) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

リヒャルト・シルマン伝

 このブログは、ユースホステルの創設者、リヒャルト・シルマンの伝記である
『リヒャルト・シルマン伝』
と連動しています。

2222.jpg

 ユースホステル運動を提唱し、それを世界に伝えたドイツの小学校教師、リヒャルト・シルマンの足跡を旅することによって、『リヒャルト・シルマン伝』が、もっと身近に読めるようにしてみました。

schi-004.jpg

 ちなみに『リヒャルト・シルマン伝』の目次は、こうなっています。

第1章 プロイセン王国  ポツダム(Potsdam)
第2章 学校  
第3章 進学  
第4章 妖精の悪戯(いたずら)  エルツ山地(Erzgebirge)
第5章 サウンドオブミュージック  
第6章 ワンデルンシューレ(移動教室)  
第7章 ワンダーフォーゲル運動の夜明け  シュテークリッツ(Steglitz)
第8章 シルマンの決意  ゲルゼンキルヘン(gelsenkirchener)
第9章 アルテナ  アルテナ(Altena)
第10章 大遍歴旅行  アルテナ(Altena)
第11章 シルマンデー  アルテナ(Altena)
第12章 プレスリリース  ケルン(Koln)
第13章 ウィルヘルム・ミュンカー  ヒルヘンバッハ(Hilchenbach)
第14章 急展開  
第15章 第一次大戦以前
第16章 第一次大戦勃発  アルザス地方(Elsass)
第17章 終戦  
第18章 復興  
第19章 破産  
第20章 子供村  デンケルスビュール(Dinkelsbuhl)
第21章 黄金時代  ドレスデン(Dresden)
第22章 暗雲
第23章 国際ユースホステル運動
第24章 弾圧  ヴィースバーデン (Wiesbaden)
第25章 終戦  ヒルヘンバッハ(Hilchenbach)
第26章 三度目の再生  デトモルト (Detmold)
終章 最後の遍歴

 この各章に照らし合わせて、このブログを構成してあります。『リヒャルト・シルマン伝』を読んだ方は、各章と、旅行記を照らし合わせて読んでみてください。このブログで紹介された地域は、すべてリヒャルト・シルマンゆかりの地です。
posted by 風 at 17:18| Comment(0) | 2009年-シルマンの旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。