2009年07月09日

ドイツ料理3

ドイツ料理で困るのが、
パン
と言ったら驚く人もいるでしょう。

ドイツのパンは、とても美味しいのですが、
困ったことにライ麦やエン麦を使っていたり
様々な雑穀が入っていたりします。
五穀米じゃないけれど、
いろんな雑穀が入っている。

だから、フランスパンなんかよりも美味しいのですが、
食べ過ぎると雑穀が消化されず下痢になってしまうのです。
場合によっては、おならもでてくる。


で、気がついたのですが、
日本で売っているパンは、
小麦パン(白パン)
なんですね。

しかし、小麦パン(白パン)は、ドイツでは、
たくさんあるパンの中の一つにすぎないんです。

ドイツには、パンは、300種類から1200種類以上もあって、
柔らかいモノから草加煎餅みたいに堅いものまである。
ですから、毎回パン選択に悩むことになるのです。

失敗すると、スルメを噛むような
堅いパンにあたってしまう。


でも、不味いかというと、そんなことはなく、
どんなパン屋さんのパンも、
すごく美味しい。
おそらく世界で一番、パンの美味しい国かもしれない。
選択さえ間違わなければね。

ちなみにドイツ人一人あたりのパンの消費量は、年間80キロ。
この数字は、世界一です。

ちなみに日本人一人あたりの米の消費量は、年間60キロ(1俵)。
20キロも差がある上に、カロリー差はもっと増えます。
ドイツ人が、いかにパンを食べているかがわかります。


しかし、こんな困ったことも何回もありました。
パンを1個注文すると、2個でてくるのです。
最初は、「まあ、いいか」と流していたのですが、
あまりにも何度もあったので、
「1個でいいんだよ!」
と怒ると
「だから1個だよ」
と返ってくる。
「はてな?」
と思っていると、1個のパンを2個に割ってよこしていたのです。
最初から2個に割れるパンがあったわけです。
どうりで、今まで金勘定が合わなかったわけです。
まあ、寿司の皿に2個の寿司がのっかっているようなものですね。

しかし、ねえ、2個に分離するパンなんて、
ややっこしいパンを作らないでほしいですね。
posted by 風 at 00:54| Comment(2) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月07日

ドイツ料理2

ドイツ料理が、日本で紹介された時に、
はじめてそれを食べた人たちの話が、
軽井沢をはじめとして全国に残っています。
どんなだったかと言いますと、

吐いたんです!
胃腸を悪くしたんです!
ウンウン唸って寝込んだ人もいた。


その逆に全く異常の無かった人もいました。

上智大学名誉教授である渡部昇一氏も、よく吐いたらしい。
肉が食べられなかったんですね。
なぜか、そういう人が続出した。

実は、現在では、原因は分かっています。

当時の日本人の胃腸が肉食に
適応してなかったのです。


そのために吐いてしまった。
バターや他の乳製品も受け付けなかった。
そのくせ、パンやキャベツは食べても問題がなかった。

実は現代でも、ベジタリアンになると、
同じような症状がおきることがあります。
食べたくても肉が食べられなくなるのです。
胃腸が先祖帰りするんですね。

マクロビなんかやってる人に、
そういう症例が多いですね。
で、彼らは肉は体に悪いと思い込むわけです。
しかし、それは錯覚というものでしょう。
ドイツ人も、日本人も平均寿命に大差はないからです。

国別で言うと、上位25位の中で
草食な国は、3カ国(日本・香港・シンガポール)だけで、
あとは全部、肉食国家だからです。
(ソース)
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1620.html


ちなみに、大正時代当時でもドイツ料理を抵抗なく
食べれた日本人たちもいました。
魚を食べる漁師たちや、
ウサギや山鯨(イノシシ)を食べる山間部出身の人たちです。
胃腸が肉食に適応していたんですね。
そういう人たちは、ドイツ料理を食べると
逆に体調が良くなったと言います。

しかし、大正時代の日本の人口の大半をしめる
ベジタリアンたちは、体調が悪くなったので
「やっぱ、健康には野菜だよ!」
と確信をもったことでしょう。

しかし、ドイツでは、逆でした。
肉を食べられる階級の貴族たちの寿命が
70歳から90歳という長寿であるのに対して
滅多に肉を食べられなかった農奴たちが、
40歳くらいでバタバタと死んでしまった。
そのために、ドイツ料理が
肉食ばっかりになってしまうのです。

(日本でも肉食の普及とともに平均寿命が延びています)


実際、ドイツ旅行すると、肉料理ばかりなのです。
たまにレタスなんかを見かけるのですが、上げ底なんですよ。
サンドイッチに、はみだしているレタスが、
上げ底で、パンの中にほとんど入ってない。
そのくせ、ソーセージやハムやカツなんかは、
パンからはみ出るくらい巨大なんです。
日本のものより5倍くらい肉の分量が多い。
こうなると、いいかげん、うんざりしてきますね。


それからレストランに行っても、
あまりにも肉食系統の料理が多いので
「生野菜を食たい!」
と叫びたくなるんですよ。

だから野菜をもとめて、何度もトルコ料理に入った。
それほどドイツ料理には、肉が多い。

たとえば、ハンバーグ!

立派なドイツ料理です。
正式名称は『ハンブルグステーキ』です。

実は、私は肉が大好きなのですが、
その私でさえ、ドイツの野菜料理の
少なさに、あきれかえってしまった。
で、日本に帰って真っ先に食べたのが、生野菜でした。

今思えば、肉好きとはいうものの、
自分は野菜人間だったのだなあと思いました。
肉は、3日食べなくても我慢できるけど、
野菜は、3日食べないと、イライラしてくるからです。
しょせん草食の日本人であったのだなあと。
つくづく、思い知らされました。

posted by 風 at 14:57| Comment(3) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドイツ料理1

ドイツ料理1

http://www.dannychoo.com/detail/mac/eng/image/20934/Motsuyaki.html

まず、上記のサイトをのぞいてほしい。
日本のホルモン屋(もつやき屋)を知った外国人の反応を!
欧米人たちが、

サンフランシスコ「(動物の)内臓とか性器とかホント止めようよ」
ドイツ「ノー、とにかくノーだ。そういった肉は全く食べないよ」
オランダ「うえっ、ノーサンキュー」
シドニー「内臓だけでも気持ち悪い。それを食べるのか?」

と吐き捨てている。

1.jpg.jpg

しかし、彼らは肝心のことを誤解しているのです。
大正時代になるまで日本人は、
(動物の)内臓を食べてなかったのです!
肉は食べても、(動物の)内臓を食べてなかった。
ところが、そいつを食べるようにしたのが、
ドイツ人だったのです。だから、

ドイツ「ノー、とにかくノーだ。そういった肉は全く食べないよ」

と発言したドイツ人は、切腹すべきですね。

だって、世界一、(動物の)内臓を食べる国民は、
ドイツ人だからです。だから私は、
「ノー、とにかくノーだ。そういった肉は全く食べないよ」
と言ったドイツ人に、言いたい!

「おまえたちは、ソーセージを食べないのかと!」

 第一次大戦で捕虜になったドイツ兵たちが、何に驚いたかというと、日本人が、動物の内臓を全部捨ててしまうことでした。日本料理といえば、魚料理ですが、魚をさばく時に、真っ先に行うことは、内臓を捨てることです。そうしないと腐りやすいし、内臓に住んでいる寄生虫が肉に食いつくからです。だから、肉食が導入されても、日本人は、動物の内臓を全部捨ててしまっていたのです。だからホルモン焼きの語源は、「ほうるもん(捨てるもの)」だったのです。

 その事実を知ったドイツ人たちは
「なんと、もったいない!」
 と激怒し、捨てられる運命にある内臓を回収し、
 それでソーセージを作ったのです。
 そのソーセージが、美味かったらしい。
 あまりに美味しかったので、それが評判になり
 農商務省の畜産試験場が注目しました。
 で、収容所のドイツ兵に頭を下げて、教えてもらい行ったのです。

 ドイツ兵たちは、最初マイスターの秘伝を公開してしまうことにためらいがあったのですが、捕虜収容所所長たちの熱心な説得に折れてくれ、10日間にわたって勉強会を開いてくれたといいます。そして彼らは、戦争が終わっても日本に残留し、ソーセージ工場を造ったり、ドイツレストランを開いたりして、日本に動物の内臓を再利用する道を開き、その伝道師となったのです。

 ソーセージだけではありません、海軍2等砲兵フランツ・ツォールンは、コンデンスミルク製造の指導をしていますし、グスタフ・ヴォルフ、アルトウール・フリッチエの2名は、東京・銀座の「カフェ・パウリスタ」に出張して洋菓子の指導をしていました。ハインリッヒ・ホルヒが東京石鹸株式会社で石鹸製造の指導を行なっています。大久保の紅谷肉店では、ドイツ兵にマヨネーズの製法を教わっています。カール・プッチングハウスは、解放後、東京・目黒でソーセージ工場を始め、戦前には大いに繁盛したとも言われています。


最後に一言
ソーセージを食べて、フォアグラ食べる奴に
「内臓だけでも気持ち悪い。それを食べるのか?」
とは言われたかあない!
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2009年07月05日

明治時代から続いた日独交流7

 第一次大戦のドイツ軍捕虜の話の続き

 ドイツ人捕虜たちは、日本人に好感を持たれました。
 その理由は、彼らの清潔好きです。

 彼らは、洗濯ばかりしていました。
 そのうえ、日本人のクリーニング屋に委託してまで、
 清潔の維持に努めました。
 当時の写真が、大量に残っていますが、
 その写真をみると、驚くべき事に
 ドイツ兵捕虜のズボンには、
 どれも、これも、きちんとアイロンが当っています。

 では、そのクリーニング代は、どこから出たかといいますと、
 日本政府が出した給料からです。
 驚くべき事に日本政府は、
 彼らの元の月給と同じ額を支給したのです。

 もちろん、彼らを、労役に使ったのではありますが、
 かなりの月給も出したのです。

 で、ドイツ人捕虜は、金持ちになり、
 自分の好きなような勉強部屋を作り、
 窓も扉も机も作り、ペンキを塗り、素晴しい家を何棟も作り、
 資材は実粗の日本人商人より購入しました。

 日本人商人の中には、ドイツ人捕虜に
 ブランデーの銘をうった酒を販売し、
 莫大な成金となり、立派な門までつくりました。
 土地の人はこの門を、ブランデーブルク門と言ったらしい。

aaa.jpg

 ドイツ人の残した資料によれば、
 酒保ではクリスマスの三日間に、
 総計3000リッターのビールを売り上げたらしい。
 ちなみに、彼らの好みの銘柄は「KIRIN」だった。

 そのうえ、自分たちでドイツ式の製法でビールを製造して
 それを仲間に売る人もあらわれました。

 ちなみに、当時の捕虜収容所の食事メニューが残されています。
 それによると和食ではなく、純ドイツ料理でした。
 しかも、バナナ・アイスクリームという
 当時の日本人が口にしたこともないメニューまでありました。

 また、毎月の体重測定の記録も残されており、
 日本側はドイツ兵の栄養の確保に、
 大変気を使っていたことがわかっています。
 しかし、それでも不充分だったものと見え、
 ドイツ兵が書き残したドイツジョークには、こんなものがありました。

 収容所内が沸き立ち、みんな走って集まっている。
 何が起きたんだ?
 故国に平和が訪れたのか?
 それとも、粉屋のペテロの家畜がくたばったのか?
 違う、誰かがスープの中に、
 肉を一かけら見つけたんだとさ!
posted by 風 at 08:04| Comment(4) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

明治時代から続いた日独交流6

 日本とドイツの交流は、古く明治時代からはじまります。明治政府は、大量の外国人を雇って、日本に学問技術を移入させたわけですが、 その時に雇った外国人の大半がドイツ人でした。

 なぜドイツ人か?
 ドイツの学問が世界で一番最先端をいっていたからです。

 明治政府は、ドイツの一流の学者に対して金に糸目をつけませんでした。具体的に言うと、総理大臣より高級を払ってドイツの学者を招聘しました。で、ドイツの学者たちは、それに良く報いました。全身全霊をもって日本人に学問を叩き込んだ。

 そして、師弟の友情が生まれたのです。

 しかし、大正三年に第一次大戦が始まり、
 日本とドイツは、国になります。

 日本は、ドイツの青島要塞を攻撃し、それを守るドイツ軍は、67日間の攻防の結果、降伏しました。この時、ドイツ軍は、4920人の捕虜をだしたわけですが、その一部が東京に到着した時、どんなことが起きたかと言いますと、

 日本の庶民たちから
 熱烈な歓迎をうけたのです!


 たとえば、晴着姿の若い日本女性が、
 敵であるはずのドイツ兵たちに
 花束を捕虜の一人一人に手渡したのです。

 花束には
「私は、かってドイツ人の恩をうけたものです」
と書いてありました。そして手紙のうしろのには、
「東京市芝区南佐久間町2丁目葉山」
と書いてあったといいます。

 ドイツ軍捕虜たちは、このような事件に衝撃をうけます。
 で、戦争が終わってからも、祖国に帰らず
 日本で一生を終える人がでてくるのです。

aa.jpg

 ドイツ軍捕虜たちは、浅草本願寺に収容されますが、
 収容所の所長は、演劇を見に行かせたりしました。
 食事は、ホテルのレストランなどから洋食をとりよせました。

 また、散歩・スポーツを奨励し、
 本堂の瓦を痛めないように、本願寺の境内に竹矢来を作って、
 その中でサッカーをやらせました。

 そこに大勢の日本人見学者が押し寄せ、
 ドイツ人にサインをねだったと言います。
 先任将校のクーロー中佐などは
 日本人のサイン攻撃に困惑したらしい。

 で、困っている彼らのために捕虜収容所を
 千葉県の習志野に引っ越したというから驚きます。

a.jpg

 ドイツ人と日本人の間には、
こんな友情が、いっぱいあったのですね!
 しかも民間レベルで。

 こんな友情話を、もう少し紹介してみましょう。
posted by 風 at 03:56| Comment(0) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

明治時代から続いた日独交流5

星基金が無かったら
ドイツの化学工業は無かった。
それは、もう常識というか定説にまでなっています。

しかし、その後、星基金は、忘れ去られました。
理由は、2つあります。

まず、フリッツ・ハーバーはアインシュタインと同様ユダヤ系学者でした。そのために一九三三年、ヒトラーが政権を取るとただちにベルリン大学から追放され、一九三四年、スイスのバーゼルでさびしく死にました。

追放のことを知ると星一はハーバーに宛てて、日本に来い、という手紙を書き送りました。しかしその書簡は、ハーバーが死んで数日後にやっと遺族のもとに届けられました。そしてそれ以後、ユダヤ人ハーバーの名は、ドイツにおいて意図的に忘却されました。

そして2つ目の理由。

「星基金」は、ヨーロッパの学術に対する非ヨーロッパ世界からの、史上初めての経済援助でした。
しかも白人の国からではありません。
白人たちの先を越したその国は、
劣悪人種といわれていた、黄色人種ヤパーナー(日本人)からのものでした。


大正8(1919)年2月13日、第一次世界大戦の戦後処理を行う為に開催されたパリ講和会議の際、米国大統領・ウィルソンの首唱による「国際連盟」設立の為に同時開催されていた国際連盟規約委員会の席上、日本は既に固まっていた14ヶ条に加えて、「第15条」として、

「人種・国籍により法律上あるいは事実上何ら差別を設けないことを約す」

と言う「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしました。
フランス・イタリアは、賛成したので
しかし、アメリカ・イギリスの反対で流れました。
それで日本は、より採択可能な修正案として、「人種」の文言を削除した

「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」

を提案し、評決にかけられたのです。
同案は、16票中11票の賛成多数で可決されることになったのですが、
議長であったウィルソン・米国大統領が突如として、

「重要案件は全会一致でなければならない」

として勝手にルールを変更し、不採択を宣言。日本側は、

「今まで、多数決だったのに、
どうして、今回に限って全会一致なんですか?」


と反論しました。
この評決については、
同じ欧米列強の一員であった
フランス全権団からも、

「それまでの票決では、全会一致の規則が適用されていなかったにも関わらず、
今回に限って全会一致の規則を適用する事には
納得出来ない


との抗議がなされましたが、
これに対して、ウィルソン・米国大統領は、

「人種差別撤廃条項を挿入する事は出来無い」

と発言し、議長役を放り投げてとっとと帰国。
自らが提唱した「国際連盟」にも米国は参加せず、

「米国不参加で、国際連盟をやるならやってみろ」

と言った態度を取ったのです。

これが、米国の民主主義かよと、
当時の日本人が、アメリカに不信をもったのも無理もありません。
(フランスには、自由の女神を帰せという権利がありますね)

アメリカでは、黒人たちが叫んでいました。

「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。全米1200万の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている」

こういう時代背景の中では、星基金を忘れたくなるのも無理ありません。
ちなみに第二次大戦後、米軍は、星基金資料をごっそり奪い去り、
それが返却されたのは、1985年のことです。
資料の大半は、シーボルト関連資料でした。

posted by 風 at 00:21| Comment(7) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

明治時代から続いた日独交流4

「星基金」つづき

 星基金の恩恵を受けた人にフリッツ・ハーバーという人がいます。

 理系の人なら「ハーバーか!」と驚くでしょう。
 農業関係者なら「おれらの神、ハーバーか!」
 軍事オタクなら「あのハーバーか?」
 プロジェクトXオタクなら「ドイツのプロジェクトXがあったら、こいつが1号だろう」
 医薬関係者なら「父なるハーバー」

 そして、日本史オタクなら「うん?」
 そして、幕末史オタクなら「あれ?なんか聴いたことがある」
 函館公園を散歩する人なら「ああ!」

 実は、初代ドイツ領事は、ルードウィッヒ・ハーバーという人でした。

 明治7年8月11日、ドイツ領事ルードウィッヒ・ハーバーが公園を散歩中、旧秋田藩士田崎秀親(23)に斬殺された。大きな国際問題になり田崎は首をはねられました。ハーバーのお墓はブラキストン(イギリス商人)により遺体は外人墓地に埋葬されましたが、1924年に50年祭があり、墓石ごと惨殺地に移して記念碑としました。

 この記念碑の除幕式に甥であるフリッツ・ハーバーが招かれたのです。
 招いた人こそ、星一です。
 奥さんを含めて招待費用全額をポンと出しています。

 フリッツ・ハーバー(ユダヤ系)は、ためらっていると
 親友のアインシュタイン(ユダヤ系)は、
「日本は素晴らしい国だよ、ぜったに行くべき!」
 と勧めました。

 そこでハーバーは1924年、星の招きを受け、シャルロッテ夫人とともに船で日本を訪問しました。そして日本の素晴らしさに感動してドイツに、こんな手紙を書きました。

「日本人は模倣と物真似の民族だという人がいます。私にはとうていそうは思えません。日本は近々、強大な大工業国になるでしょう」

 星に感銘を受けたフリッツ・ハーバーは、感謝のしるしにいくつかの化学の特許をぐちよく星に贈与しようとしました。しかし星はそれを断っています。

「他人の特許は必要ならばお金で正当に買うべきです。タダでもらうものではない」

 もし星があのときフリッツ・ハーバーから
 いくつかの化学の特許を受けとっていたら、
 彼の会社は、倒産せずにすみ、
 戦後の日本の化学工業界は世界一になったでしょう。
 それほど凄い特許だった。

 しかし、星は、断った。
 男ですね。


 1926年、日本からの4つの基金援助で立ち直ったドイツは、
 ベルリンに日本文化研究所をつくりました。
 フリッツ・ハーバーが初代所長に選ばれ、
盛大に開所式が行われました。

 日本の星一と友人たちは、
 またしても高額の寄付金を送りました。
 その星からのお金で文化研究所は、
 オーストリア皇帝・フランツ一世の遺品の中から、
 シーボルトの『ニッポン』一揃いを購入することができました。

posted by 風 at 20:44| Comment(0) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明治時代から続いた日独交流3

「星基金」つづき

 明治末、12年間の米国留学から帰った星一は製薬会社を興しました。日本で初めてモルヒネの精製に成功するなど事業は飛躍的に発展した星一(星新一のお父さんです)は、ドイツの学者たちの窮状を知りますと、青年時代アメリカで苦学したことを思い出し、自発的に私費をベルリンに送りました。

 現在「ドイツ学術振興会」(DFO)という大な組織がありますが、その前身は第一次大戦後、飢餓にさらされた学者たちを救うために設けられた組織(Notgemeinschaft der Deutschen Wissenschaft)でした。

 この振興会に星は多額のお金を送りました。
 そしてそれには何の条件も制約も付けませんでした。

 委員会は「星基金」により第一線級の若い化学者と原子物理学者に奨学金を出すことにしました。その結果、多くの研究者たちが、飢えを知らずに「生きる」ことができたのです。「星基金」の恩恵を受けた人びとの中には、次のような名があります。

リヒヤルト・ヴイルシュテッター 一九一五年、ノーベル化学賞受賞
マックス・プランク 一九一八年、ノーベル物理学賞受賞
フリッツ・ハーバー 一九一八年、ノーベル化学賞
オットー・ハーンー 一九四四年、ノーベル物理学賞受賞
レオ・シラート 一九三八年米国に亡命し、世界最初の原爆を製造
その他大勢の名があります。

 ところで「星基金」についての書類文献はごく少ししか残っていません。
 その文献は、ライン河畔コブレンツの連邦公文書館に保存されています。

(実は、そのコブレンツに行ってきました)
(西山夫妻も行ってますね!
 http://blog.livedoor.jp/m-95_72230/archives/51423703.html

 その資料によれば、星は一九一九年から一九二五年まで、毎年多額の円を送金しました。当時、金と交換できた日本円は強かったのですね。

 ところが、製薬会社というものは、許認可にかかわる事業です。
 政争のため星自身は内務省にいじめられて倒産してしまいます。

 しかし、星一は、倒産してしまったあとも、
 家屋敷を売って
 彼は約束の金額をベルリンに黙って送り続けて、
 最後まで約束を守り続けました。

 一九二五年の送金だけでも、
 ベルリンでは
97の学問的プログラム
 が進められ、さらに
 九人の第一線級の化学者が
 二年間続けて助成されました。


 つまり研究だけでなく、生計を立てることができました。

つづく
posted by 風 at 15:26| Comment(7) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明治時代から続いた日独交流2

ベルリンの「星基金」

 第一次世界大戦のあとドイツの学界は、インフレーションのために極度の財政難に陥り、国際学界からも長いことボイコットされていました。まさにそのとき、かなりの数の日本人が、かつて学んだドイツの恩師や友人への忠実な友情関係を再開しました。個人的援助は、数知れず。パウズインガー一家の例は、やまほどありました。

 しかし、それを一々あげてたらきりがないので、公的援助について述べてみます。実は、公的なものでは、当時ベルリンだけでも日本から送られたお金で「日本基金」が四つも設立されました。

 4つですよ!
 4つ!


 発展途上国が、先進国に4つの基金を送ったのです。
 これは、他に例をみない措置です。
 おそらく史上初の
 発展途上国による、先進国への援助
 です。
 それが4つあった。


 その4つの中のひとつに
 「星基金」(Hoshi Ausschuss)
 と言う基金がありました。

 星製薬の創始者・星一(星新一のお父さんです)は、ドイツの学者たちの窮状を知りますと、自発的に私費をベルリンに送りました。

 現在「ドイツ学術振興会」(DFO)という組織がありますが、その前身は第一次大戦後、飢餓にさらされた学者たちを救うために設けられた組織でした。この振興会に星は多額のお金を送りました。そしてそれには何の条件も制約も付けませんでした。

 そして、ドイツでは、星からの寄付を有効に用いるべく、ベルリン大学化学教授のフリッツ・ハーバーを長とする委員会をつくり、「星基金」の運営をまかせました。

 この星基金で飢えをしのいだ学者たちが、中心となって、ドイツに化学王国を誕生させ、バイエル、ヘヒスト、BASFという世界最強最大の化学会社を作ったことは、あまり知られていません。さらには、原爆まで発明してしまったことは、皮肉な運命とも言えます。

 では、「星基金」とは、いったい何であったのか?



つづく
posted by 風 at 00:37| Comment(2) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

明治時代から続いた日独交流

「ドイツ人は、どんなふうにケチか?」を読んだ方の中で、日本とドイツの交流の話をもっと聞きたいという人がいたので、このさい、あと2つ3つくらい紹介しておきたいと思います。


 昔、日本とドイツには、友情があったのです。

 草津温泉に住んでる人ならピンとくるでしょう。
 しかし、日本人の若者には分からないし、
 ドイツ人の若者にも分からないでしょう。

 だから私が説明してもいいかもしれません。


明治時代から続いた日独交流

 小塩節さんというドイツ文学者、中央大学名誉教授が、
 ドイツ留学生の頃のに体験した実話です。

 今から何十年も前のことです。小塩さんは、ドイツのミュンヘン郊外のパウズインガー一家の館に二ヵ月下宿をさせてもらいました。本人は、ただの下宿人として泊めてもらうつもりでしたが、しだいに家族の一員となってしまいました。

 パウズインガー家の人びとは、ただの下宿人でしかない小塩さんをまるで一家の賓客でもあるかのように、もてなしてくれました。遠くまでドライヴに連れて行ってくれたり、一家をあげて親切にしてくれました。小塩さんは次第にその好意に甘えるようになってしまいました。小塩さんは、この親切に対して

「一般的に言ってドイツ人は日本人に対して親切なのだ」

と気楽に考えていました。

「ひょっとしたら私のドイツ語が人並み以上だったから仲良くなれたのかも」

と思う気持もありました。

 しかし、そうではなかったのです。
 その理由は、小塩さんが
 パウズインガー一家と分かれる時に分かります。

 グラーフラート村滞在の最後の日、
 パウズインガー一家とお別れの日、
 ヨハンナおばあさんはいつものようにヴェランダに
 午後のコーヒーの用意をして、小塩さんを呼んでくれました。

 そして彼女は語りだしました。

 ヨハンナおばあさんのお父さんは、マイヤーというミュンヒェン大学の林学教授でした。明治の末に東京大学に招かれ、農学部の中に林学を確立するため数年を過ごした、というのです。

(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

 帰国後まだ五十歳代で亡くなりましたが、数人の子どもを抱えて未亡人は、第一次大戦後の天文学的インフレーションの時期に、たいへん苦労をしました。卵をひとつ買うのに、カバン一杯の紙幣を詰めていかなければならぬのです。

 そのとき、かつての東京大学での教え子たちが
 日本でお金を集め、
 ドイツに送ってくれました。

 そのお金で未亡人は苛烈な時代を乗り切ることができました。

「あなたは」

とヨハンナおばあさんは、
いまも美しい大きな蒼い眼を
うるませながら続けました。

「半世紀たったいま、私が行ったことのない遠い東の国から、心よりの挨拶を持ってきてくれました。どうしてこの人を、もてなさずにおれようか、と思いました」

そう言って、60歳とは思えぬ力で小塩さんを強く強く抱きしめました。そして、彼女は会ったことのない、しかし母親からよく聞かされた日本の農学者、林学者たちの名を正確にあげました。

「白沢、加藤、小出…」

というお弟子さんたちの名を。
いまはもう亡き人たちであろう名です。

 翌朝ヨハンナおばあさんは家中を指揮して、小塩さんに早い朝食を用意してくれました。それから駅まで小塩さんを送って、目を真っ赤にして別れを告げるとき、

「朝は五時に起きて、森のむこうの川べりの教会の早朝ミサに行き、おまえの旅路、安らかなれと祈ってきた」

と言いました。

「この親愛の情は、小塩さん自身に寄せられたものというよりも、明治・大正の先人たちの蒔いてくれた種子のせいなのです」

と、小塩さんは、しみじみ思いました。

 ところで、この話には後日談があります。
 小塩さんは、この話を東京の朝日新聞に書き送りました。

 航空便で送った数枚の文章が新聞にのってしばらくして、
 国際基督教大学の小出詞子教授が
「あの小出というのは、私の亡父です」
というお便りをくださいました。

 小塩さんが、ヨハンナおばあさんにさっそくそのことを伝えたのは、言うまでもありません。



 この話は、決して珍しい話ではありません。
 当時の日独には、わんさかあるのです。
 それについては、機会があったらふれることにしますが、

 問題は、こういう草の根交流が、
 現代にあるのか?
 ということですね。

 明治人にできて、平成人にできるか?
 ということですね。




(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

明治期に来日したお雇い外国人でドイツ人林学者。バイエルンに生まれる。父は森林官。ミュンヘンのギムナジウム時代に森林会議の速記をしたり、卒業後父の勤務する営林署で林業見習生となります。森林学校に学んだ1876年より晩年まで世界各地の森林を踏査し研究を続けました。

 明治18(1885)年に森林調査で初来日し翌年まで滞在。21年1月東京農林学校(東大農学部)教授として招かれ再度来日、造林学、森林植物学を講じます。24年2月帰国。

 その間、北はエトロフから南は屋久島におよぶ各地の森林を踏査。成果の『日本樅科植物考』(1890)は日本の森林植物帯研究の基礎となりました。離日の際、「伊豆、九州の山は荒れている」との感想を残します。1903年バイエルン国皇子の随員で3度目の来日をしました。
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2009年06月22日

ドイツ人は、どんなふうにケチか?

ドイツ人は、どんなふうにケチか?

 ブログを読んでくれた御客様からこんな質問がありました。

「ドイツ人って、ケチなんですね?」
「そうですね」
「ユダヤ人みたいですね」
「うーん、ちょっと違うかなあ」
「じゃあ、関西人みたいな感じ?」
「それとも違うなあ、しいて言えば、名古屋人みたいな感じかなあ」
「じゃ、どケチということですか?」

 言葉に詰まってしまったので、ブログで回答することにしました。
 で、考えたのですが
 舌足らずな私の言葉より、引用の方が正確だと思うので
『エッ!そんなことが』藤井啓之著
 より抜粋して紹介してみます。

 藤井啓之さんは、銀行員です。
 彼が某銀行のニューヨーク支店で働いた時の思い出を紹介します。


 × × × × × × × ×



コタ・ウオルフの思い出

 東ドイツから逃げて来たという二十代半ばのドイツ女性、ユタ・ウォルフ(Uta WOlf)を採用した。当日の応募者の中で明るい性格、やる気、頭の良さが抜群だった。
 ところが、日もあまり経たないうちにアメリカ人スタッフから白い目で見られるようになった。
 応募日に着てきた太めの毛のセーターを毎日着てくるのと、連日残業してタイプ、加算機などの練習に黙々と励んでいるのが気にくわないと言う。

 確かに、貧しくとも服は毎日着替えるのが勤め人の常識となっており、また残業が毎日続くようでは当局の立入検査の対象にもなる。当然ユタは皆の陰口の対象となった。

「不潔なドイツ人−」
「残業を見せっけ日本人スタッフの歓心を買おうとしている」

などと言われ、支店内の雰囲気はおかしくなった。
初めて週給を払う金曜日、彼女にそれとなく聞いてみた。
ところが、

「みなさんが、何を思っているかは分かります。皆に迷惑なのも分かります。ただ私は、東独から着の身着のまま逃げて来たので、食べるのが精一杯です。今日いただいたこのお金は有効に使います。また残業しているのは、営業中にはできないタイプや加算機の練習のためです。従って残業代は要りません」

という趣旨のことを、ひどいドイツ語靴りの英語で言うのだった。

 次の月曜日には粗末ながらも新しい服装で現れたのでほっとしたが、火曜日にはまた例のセーターとなり、その週は二着を交互に着ていた。毎日変えるようになったのは、かなり後になってからのことだった。

 女性や若いアメリカ人男性スタッフは規定の五時になると決まって、バイ!と言って帰ってしまう。計算係は当日の入出金を加算機で集計し五時になると、今日はこれこれの数字が合わないと言い残して平気で帰ってしまうので、後は我々日本人が残業して勘定合わせをする毎日だった。

 しかし、ユタが担当すると勘定が合うまで帰らない。

 ニューヨークは遅くなると物騒な街なので、本人に事故でもあれば当局は従業員の安全管理の不備を突いてこようし、経営者の支店経営実態なども問題にしてこよう。従って、後は我々に任せて早く帰るようにと言うと、

「これは自分の仕事です。残業になるのは自分の手が遅いからで、標準に達していれば時間内に納まる仕事量です。もちろん残業代は要りません」

と言われ、その根性に舌を巻いた。

 当時、我々のオフィスはマンハッタン島の最南端にあり、アメリカ人の好きなパレードの出発点でもあった。高層ビルの上から紙テープを投げながら見るパレードは皆の愉しみの一つにもなっていた。そんなある日、宇宙旅行に成功したシェパード飛行士の凱旋パレードが始まった。例によってビルの窓は人の顔で埋まり、紙テープの舞うのが見えてくると、店内のローカルスタッフは一斉にオフィスから飛び出して行った。人気のなくなったオフィスにユタが一人タイプの前に座り黙々と仕事を続けている。

「ユタ、君も行って見て来いよ」

 と言うとNO″と言う。
 そして私の不思議そうな顔に気がついてこう言った。

「いうなれば、シェパードは宇宙船の運転手でしよう。本当に祝福されるべき人はあの宇宙船を造った技術陣のはず。ロケットを造ったブラウン博士共々その人たちがパレードするなら私は喜んで手を振ってあげる」

 これを私はドイツ人の理屈っぽさと受け取ることはできなかった。

 物が豊富なせいか、ためらいもなく鋏でひもを切り、包装紙は丸めてゴミ箱に入れる女性たちの中にあってユタは国の母の躾だと言って、ひも、包み紙はきちんと整理箱に収め、事ある毎にそれを活用していた。

 このような日々を送るうち、次第に彼女の英語も堪能になり、引き続き仕事振りも他の範として昇給もボーナスもトップを続けた。だが服装だけは依然として質素だった。

 こうして二年ほど経った年の末、西部の都市に移ることになったという彼女の送別会を兼ね、恒例のクリスマスパーティを開いた。

 当日女性たちはそれぞれ華やかに着飾り楽し気に集まった。

 中にひときわ上等なシルク仕立てのドレスに身を包み、
 艶やかな女性が皆の目を引いていた。


 ユタだ!

 何という憎い演出だろう。
 出世物語か映画のラストシーンでも見ているような
 ショックを受けた。

 賑やかな会食も終わり、
 ユタが退職の挨拶に立った時、
 その優雅な姿に一瞬静まり返った。

 その挨拶は馬鹿にされた往時のことも、
 いじめへの恨みつらみの一言もなく、
 謙虚に感謝の言葉で締めくくられた。


 ダンスパーティに移り、私はユタの相手をした。
 踊りながらユタが、

「長い間面倒を見てくれて本当にありがとう。藤井さん」

 と言うのでふと顔を見ると、形の良い鼻の脇にが光っていた。
 私はこのユタにドイツ魂とドイツ女性を見た。

(『エッ!そんなことが』藤井啓之より抜粋して紹介)
posted by 風 at 23:34| Comment(4) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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