2009年07月04日

明治時代から続いた日独交流6

 日本とドイツの交流は、古く明治時代からはじまります。明治政府は、大量の外国人を雇って、日本に学問技術を移入させたわけですが、 その時に雇った外国人の大半がドイツ人でした。

 なぜドイツ人か?
 ドイツの学問が世界で一番最先端をいっていたからです。

 明治政府は、ドイツの一流の学者に対して金に糸目をつけませんでした。具体的に言うと、総理大臣より高級を払ってドイツの学者を招聘しました。で、ドイツの学者たちは、それに良く報いました。全身全霊をもって日本人に学問を叩き込んだ。

 そして、師弟の友情が生まれたのです。

 しかし、大正三年に第一次大戦が始まり、
 日本とドイツは、国になります。

 日本は、ドイツの青島要塞を攻撃し、それを守るドイツ軍は、67日間の攻防の結果、降伏しました。この時、ドイツ軍は、4920人の捕虜をだしたわけですが、その一部が東京に到着した時、どんなことが起きたかと言いますと、

 日本の庶民たちから
 熱烈な歓迎をうけたのです!


 たとえば、晴着姿の若い日本女性が、
 敵であるはずのドイツ兵たちに
 花束を捕虜の一人一人に手渡したのです。

 花束には
「私は、かってドイツ人の恩をうけたものです」
と書いてありました。そして手紙のうしろのには、
「東京市芝区南佐久間町2丁目葉山」
と書いてあったといいます。

 ドイツ軍捕虜たちは、このような事件に衝撃をうけます。
 で、戦争が終わってからも、祖国に帰らず
 日本で一生を終える人がでてくるのです。

aa.jpg

 ドイツ軍捕虜たちは、浅草本願寺に収容されますが、
 収容所の所長は、演劇を見に行かせたりしました。
 食事は、ホテルのレストランなどから洋食をとりよせました。

 また、散歩・スポーツを奨励し、
 本堂の瓦を痛めないように、本願寺の境内に竹矢来を作って、
 その中でサッカーをやらせました。

 そこに大勢の日本人見学者が押し寄せ、
 ドイツ人にサインをねだったと言います。
 先任将校のクーロー中佐などは
 日本人のサイン攻撃に困惑したらしい。

 で、困っている彼らのために捕虜収容所を
 千葉県の習志野に引っ越したというから驚きます。

a.jpg

 ドイツ人と日本人の間には、
こんな友情が、いっぱいあったのですね!
 しかも民間レベルで。

 こんな友情話を、もう少し紹介してみましょう。
posted by 風 at 03:56| Comment(0) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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