2009年06月30日

明治時代から続いた日独交流

「ドイツ人は、どんなふうにケチか?」を読んだ方の中で、日本とドイツの交流の話をもっと聞きたいという人がいたので、このさい、あと2つ3つくらい紹介しておきたいと思います。


 昔、日本とドイツには、友情があったのです。

 草津温泉に住んでる人ならピンとくるでしょう。
 しかし、日本人の若者には分からないし、
 ドイツ人の若者にも分からないでしょう。

 だから私が説明してもいいかもしれません。


明治時代から続いた日独交流

 小塩節さんというドイツ文学者、中央大学名誉教授が、
 ドイツ留学生の頃のに体験した実話です。

 今から何十年も前のことです。小塩さんは、ドイツのミュンヘン郊外のパウズインガー一家の館に二ヵ月下宿をさせてもらいました。本人は、ただの下宿人として泊めてもらうつもりでしたが、しだいに家族の一員となってしまいました。

 パウズインガー家の人びとは、ただの下宿人でしかない小塩さんをまるで一家の賓客でもあるかのように、もてなしてくれました。遠くまでドライヴに連れて行ってくれたり、一家をあげて親切にしてくれました。小塩さんは次第にその好意に甘えるようになってしまいました。小塩さんは、この親切に対して

「一般的に言ってドイツ人は日本人に対して親切なのだ」

と気楽に考えていました。

「ひょっとしたら私のドイツ語が人並み以上だったから仲良くなれたのかも」

と思う気持もありました。

 しかし、そうではなかったのです。
 その理由は、小塩さんが
 パウズインガー一家と分かれる時に分かります。

 グラーフラート村滞在の最後の日、
 パウズインガー一家とお別れの日、
 ヨハンナおばあさんはいつものようにヴェランダに
 午後のコーヒーの用意をして、小塩さんを呼んでくれました。

 そして彼女は語りだしました。

 ヨハンナおばあさんのお父さんは、マイヤーというミュンヒェン大学の林学教授でした。明治の末に東京大学に招かれ、農学部の中に林学を確立するため数年を過ごした、というのです。

(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

 帰国後まだ五十歳代で亡くなりましたが、数人の子どもを抱えて未亡人は、第一次大戦後の天文学的インフレーションの時期に、たいへん苦労をしました。卵をひとつ買うのに、カバン一杯の紙幣を詰めていかなければならぬのです。

 そのとき、かつての東京大学での教え子たちが
 日本でお金を集め、
 ドイツに送ってくれました。

 そのお金で未亡人は苛烈な時代を乗り切ることができました。

「あなたは」

とヨハンナおばあさんは、
いまも美しい大きな蒼い眼を
うるませながら続けました。

「半世紀たったいま、私が行ったことのない遠い東の国から、心よりの挨拶を持ってきてくれました。どうしてこの人を、もてなさずにおれようか、と思いました」

そう言って、60歳とは思えぬ力で小塩さんを強く強く抱きしめました。そして、彼女は会ったことのない、しかし母親からよく聞かされた日本の農学者、林学者たちの名を正確にあげました。

「白沢、加藤、小出…」

というお弟子さんたちの名を。
いまはもう亡き人たちであろう名です。

 翌朝ヨハンナおばあさんは家中を指揮して、小塩さんに早い朝食を用意してくれました。それから駅まで小塩さんを送って、目を真っ赤にして別れを告げるとき、

「朝は五時に起きて、森のむこうの川べりの教会の早朝ミサに行き、おまえの旅路、安らかなれと祈ってきた」

と言いました。

「この親愛の情は、小塩さん自身に寄せられたものというよりも、明治・大正の先人たちの蒔いてくれた種子のせいなのです」

と、小塩さんは、しみじみ思いました。

 ところで、この話には後日談があります。
 小塩さんは、この話を東京の朝日新聞に書き送りました。

 航空便で送った数枚の文章が新聞にのってしばらくして、
 国際基督教大学の小出詞子教授が
「あの小出というのは、私の亡父です」
というお便りをくださいました。

 小塩さんが、ヨハンナおばあさんにさっそくそのことを伝えたのは、言うまでもありません。



 この話は、決して珍しい話ではありません。
 当時の日独には、わんさかあるのです。
 それについては、機会があったらふれることにしますが、

 問題は、こういう草の根交流が、
 現代にあるのか?
 ということですね。

 明治人にできて、平成人にできるか?
 ということですね。




(Mayer, Heinrich 1856−1911 職期間:1888−1891)

明治期に来日したお雇い外国人でドイツ人林学者。バイエルンに生まれる。父は森林官。ミュンヘンのギムナジウム時代に森林会議の速記をしたり、卒業後父の勤務する営林署で林業見習生となります。森林学校に学んだ1876年より晩年まで世界各地の森林を踏査し研究を続けました。

 明治18(1885)年に森林調査で初来日し翌年まで滞在。21年1月東京農林学校(東大農学部)教授として招かれ再度来日、造林学、森林植物学を講じます。24年2月帰国。

 その間、北はエトロフから南は屋久島におよぶ各地の森林を踏査。成果の『日本樅科植物考』(1890)は日本の森林植物帯研究の基礎となりました。離日の際、「伊豆、九州の山は荒れている」との感想を残します。1903年バイエルン国皇子の随員で3度目の来日をしました。
posted by 風 at 21:22| Comment(0) | 日本とドイツの交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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